投稿者: hikarinokunie

  • キャンプの醍醐味

    久しぶりにキャンプをした。我が家は夫婦揃って積極的なアウトドア派でもないし、僕自身は島育ちなのにしっかり泳げないなど、ワイルドさから一切縁遠い。

    とは言え、都会よりも木々のそよぐ山の中や、美しい夕焼けに染まる海の方が落ち着くし、文明よりも自然の方が地球にとっては大事だとも思う。

    年齢は関係ないかも知れないが、昨年50歳を超えたタイミングで、よく分からないが庭の手入れがしたくなり、人生で初めて作業用にオーバーオールを買った。

    そしてきっかけは格好だったが、なんだかんだ土に触れ作業をしているうちに、久々にキャンプをするのも良いなと思うようになり、そんな最中、山梨で知人が管理する広い庭のある古民家に出会った。

    山梨は韮崎市にある彼女が管理するその場所は「アヰルナ」と名付けられ、地域の方々や自然に触れ合いたい都心の人たちが集える場としてイベントなどが不定期で開催されていたが、聞いたところ、テントを張って泊まってもいいとのこと。

    そんな訳で、暫く使っていないテントを押入れから引っ張り出し、GWに夫婦と犬一匹で、アヰルナにてキャンプをして来た。

    このアヰルナのある韮崎市は甲府から長野方面に約15㎞行ったところに位置するが、四方を南アルプス、八ヶ岳、富士山に囲まれる大変風光明媚な場所で、山登りをする人たちの拠点としても知られているようだ。

    GWの前半、初夏の日差しを感じさせる晴天のもと、辿りついたアヰルナは力強い新緑で満たされていて、周辺の田んぼではま正に田植えが終わり、綺麗に整列した小さな苗たちが水面に揺れていた。

    おそらく7年ぶりのキャンプ。組み立てる手順を思い出すには前回の記憶は朧げで、ほぼ初心者の段取りで作業を進める。この日は全国的にもニュースになる程の強風で途中かなり手こずったが、たまたま居合わせ他の熟練キャンパーの方にも手伝って頂き、しっかりと安定して設置が出来た。

    ひとまず基盤が整った後はクルマから荷物をテントに移し、頃合いを見て買出しに行き、焚き火とともにバーベキューと言うキャンプの王道も味わったが、今回のキャンプで僕が感じた一番の醍醐味はこの後にやって来た。

    眠る前のひととき、狭い室内で最低限の荷物に囲まれて、小さな灯を頼りに、皆んなで寄り添い眠るのはただシンプルに幸せだと感じた。

    そしてそんな僕らを取り囲む様に、近くの田んぼでは沢山のカエルが、まさに懐かしい童謡のタイトルの如く、カエルの歌の大合唱に興じており、BGMとしては穏やかでは無いけれど、賑やかで愉快な時間が漂った。

    それ以外にも得体の知れない虫たちのざわめきや、鳥たちのささやきが闇夜を行き交い、何だか異世界に迷い混んでいる気にもなったが、非日常感と日頃の疲れが眠気を誘い、程なく僕は眠りに落ちた。

    その後、最初のうちは僕も奥さんも何度か目を覚ましたが、後に深い真夜中の底で身を屈め、次に目覚めたのはテントの向こう側が淡い光を放ち始めたタイミングだった。

    登りゆく太陽に歓喜する鳥たち。その鳴き声が大地を震わせて、ああ朝がやって来たんだなと実感する。

    そう、これが朝が生まれた瞬間。

    結局、僕らはテントで2泊した。2泊目は外食して温泉施設で快適に入浴したから、純粋に言えば1.5泊と訂正するのが正しいかも知れない。ただし2泊目も、静かな家族の時間とテントの外の異世界をしっかり味わった。

    帰宅に向けて片付ける際、今回のキャンプで足りなかったものは何かなど、知らず知らず頭の中で振り返っていた。キャンプへの熱はそんなに直ぐには冷めなそうだ。早く次のスケジュールを練りたいとも感じた。

    余談ではあるが、僕も奥さんも寝ている間に何度か目を覚ましていて未だ郷に入っていないが、我が家の犬だけは初のテント泊にも関わらず、すっかり寛いで眠っていた。自然へ溶け込む順応性の高さ、地球に生きる存在としては、やはり犬の方が人間よりも高次の様だ。

  • Vitalogy

    3月の頭、台湾に行って来た。20年ぶりの台湾、前回行った時のことは余り覚えていない。おそらく流行りや表向きの暮らしは変わっているのかも知れないが、どことなく懐かしいアジア特有の香りや、石造りの昔ながらの建物が並ぶ街の景色は、当時と変わらずそこにある様な気がする。

    台湾と言えば、食文化や台北などの街巡りが観光としてはポピュラーだが、今回一番印象に残ったのは自然のエネルギー・生命力だった。

    前回同様、今回も台北を中心とした滞在で、街を巡ることがメインだったが、ともかく街中は緑で溢れていた。街路に公園、マンションやアパートのベランダに至るまで、ともかく木々や植物が溢れる様が目に付く。

    たまたま週末に開催される大型のフリーマーケットに行く機会があったが、会場を埋め尽くす多くの出店のほとんどが観葉植物やミニ盆栽などの植物に関するもので、多くの人たちが、それぞれの暮らしを彩るためにそれらを買い求め、そしてそれらが街の表情の一部として生き付く。

    今回、台北から東にバスで90分程の場所にある九份と言う観光地にも行った。ここは映画『千と千尋の神隠し』の舞台になったとも言われる場所で、かつて炭鉱の街だった頃の歴史的な街並みが特徴的だが、周囲は「豊かな自然」というよりも「生命力の塊」と言う表現がピッタリの山々に囲まれていた。

    台北から九份までの車窓。台北を出発して程なく深い緑が人の暮らしを包み込む。緯度が沖縄よりも南に位置している台湾。亜熱帯の気候に属するこの場所は、強い大地のエネルギーに満ちた自然こそがその象徴と言える島なのだと実感する。

    話は変わるが、台湾の人たちはとても親切で謙虚だった。物静かで、声色やトーンも穏やかで、旅をしていて嫌な思いをすることも無かったし、都心部によくある空気が淀んで近寄り難い様な場所にも巡り会わなかった。電車を待つ誰もが列を作って順番を守って並ぶ姿は特に印象的で、正直そんな律儀な振舞いを、海外で見るは初めてだった。

    日本人の感覚・感性に近いと思わせられる様な場面がいくつもあり、かつて台湾と我々は何か同じ起源・DNAを共有する存在だったのかも知れない、そんな気にもなった。仮にそうだった場合、その根底には自然のエネルギーを受け取ることのできる感受性や畏怖の念、そして自然には敵わない、人間は自然の一部という謙虚さがあるのではないのだろうか。

    滞在最終日の穏やかな午後、想いを巡らせながら歩く台北の古い商店街。人も建物も植物も、全てが調和し、輝きを放っている。日常の一コマにも台湾と言う土地が持つエネルギーが宿っている様で、そんな光景に触れていると、静かながらも力強く、僕の心も震え出す様な気がした。

  • EDDIE VEDDER

    最初に言っておくと、今日はただの偏愛の話になってしまう。それでも構わないと言う方はお付き合いを。

    多くの皆さんと同じ様に、僕にも人生のヒーローがいる。その人はパールジャムというアメリカのロックバンドのボーカリストでエディ・ヴェダーという人物だ。

    日本ではあまり認知されていないが、1980年代後半から1990年代のアメリカの音楽シーンを席巻したグランジというジャンルの中心的バンドの1つがパールジャムで、そのフロントマンがエディ・ヴェダーである。

    同じジャンルの最も代表的なバンドがおそらく誰しも名前は聞いたことがあるだろうニルヴァーナ。当時は特にアメリカではこね2つのバンドの人気が凄かったが、日本ではそのファッションや音楽性の好みもあってかニルヴァーナが人気を博した。

    一方で少し音楽性がとっつきづらく、歌詞も内向的、また時に既得権益と真っ向勝負する政治的な言動も馴染まなかったのか、日本ではパールジャムは一部の熱狂的なファンに支持される存在だった。

    僕が初めて彼らの曲を聴いたのは今から30年前の二十歳の頃。敢えて皆んなが行かない方向を選ぶ、少し捻くれた性格も影響し、何となくパールジャムを聴き始めた。勿論最初は曲も取っ付きずらいし、当時のエディは尖りまくっていて、彼らの音楽が身体に沁み入るまでにはそれなりの時間を要した。

    しかし、静と動が共存した独特且つパワフルなバンドサウンドと、荒々しさの中に研ぎ澄まされた繊細さが際立つエディの歌声に一度ハマると、むしろそこから離れることは難しく、パールジャムは僕の生活、身体の一部になった。

    気がつけば、僕の人生で最も不確実で不安定なあの頃、彼らの音楽は癒しであり、救いであり、そしてエネルギーを与えてくれるかけがえのない存在で、停滞しそうな僕の心に光を与えてくれた。

    2003年にパールジャムが来日した際には、武道館でのライブを観ることができた。控えめに言って最高だった。アメリカによるイラクへの攻撃が世界のニュースを賑わしていた時期で、彼らは反戦や社会の理不尽を訴えながら魂を震わせて、ステージは熱量とある種の緊張感に包まれていた。一方で認知度の低さから、幾つかの会場は客席が埋まらず、エディもバンドも日本を嫌いになってしまったとの噂も広まり、実際それ以降彼らが日本を訪れることは無かった。

    彼らの日本からの距離が遠ざかる状況に加え、僕自身の環境も変わった。社会に出て暮らす中で、良く言えば丸みを帯びてきて、悪く言うと心の声とは向き合わず、エディやパールジャムの世界からは少しスライドしたところで、ある種、客観的に彼や彼らの活動を横目に、日々を追われる様に過ごした。

    2003年の来日から20年以上の時が経った。エディの日本嫌いが既成事実になりかけ、パールジャムとの記憶が薄れかけていた2025年の年末、エディがソロで来日することが唐突に発表された。

    何故にこのタイミングで日本に?驚きの方が大きく、何だかピンと来ないながらも、急いでチケットを押さえ、過ぎ去った時間を手繰り寄せるように、エディのことを調べたりパールジャムやソロ作品の曲を改めて何度も聴いたりした。

    かつて大好きだった音楽を何度も聞き、エディの近況を調べているうちに、心が少しずつ強いエネルギーで満たされ始め、20代のあの頃の感覚が蘇ってきて、ライブがとても楽しみになってきた。

    因みに、時代の寵児、ある意味時代の異端として、行き場を失いかけていた我々の代弁者だったエディも、様々な経験の中で優しさと包容力が増し、愛に満たされた存在となっていた。

    直近では表皮水疱症(EB)と言う難病患者の子供たちに十分な治療が行き届く様、奥さんのジルと共に活動をしている。その模様は『マター・オブ・タイム』と言うドキュメンタリー映画に纏められているが、患者の子供達を見つめる眼差しが澄んだ水面のように優しく、とても印象的だった。

    さて当日のライブ。贔屓目抜きに本当に素晴らしかった。60歳を超えているにも関わらず、とんでもない声量で、ギター1本のソロライブとは思えない迫力と重厚感。そしてバンドスタイルでは無いが故、その声が際立ったが、こんなにも美しい声をしていたのかと改めて気付かされた。

    約2時間のライブ。MCではカンペ片手に一生懸命、日本語で何度も感謝の気持ちを伝えてくれ、日本嫌いはただの噂、もしくは過去の話に過ぎないと感じさせられた。

    往年のファンも、僕もまた目を潤ませながら、その圧倒的なライブと彼が目の前にいると言うある種奇跡の様な瞬間をただただ見つめていた。グランジと言う一世を風靡した中心的なバンドのフロントマンは皆、既にこの世を去っており、正に目の前にいるエディは過酷な時代から生還した生きる奇跡そのものだった。

    ライブの終わり、エディがステージから去っていくタイミング。エディへの感謝の気持ちと寂しさが去来した。そしてちょっと声が苦手と言っていた奥さんが、僕の隣で去り行くエディに大きく手を降っていた。「初めて生で聴いたけど、良い声だった。感動したよ」。そんな奥さんの言葉が嬉しかった。

    今回のライブもその少し前に見たドキュメンタリー映画も素晴らしかった。僕の中で止まっていた時間が動き出し、また心に火が灯った。今後の僕の人生、エディに会うことは無いだろうけれど、もし会えるならば今の気持ちをしっかり保存して、「あなたのファンで良かった」と、ただそれだけを伝えられたらと思った。

  • 人が、人らしく

    人が、人らしく生きること。

    この当たり前を見失い、この当たり前を追い求めて生きる時代に、僕らはいる様です。

    ここのところ僕は、人が、人らしく生きるためには、心が健全に働き、心が生きる原動力であり続けることが大切と感じる様になりました。

    健全な心のフィルターを通して、喜怒哀楽の感情をスパイスに、この世界を味わう様に、そして旅する様に暮らす。

    忙しなく、自分の立ち位置すら掴めない毎日でも、ぶれることなく心が自身の確かな拠り所となる。

    その為には、身震いする様な誰かの熱い想いや、当たり前を覆す斬新なアイデア、そして物事の本質に宿る美の真髄に触れておくことも必要でしょう。

    それらを大切な誰かとシェアしながら、健全な心で世界が包まれていけば、いつしかこの“ほし”も微笑んでくれるような、そんな予感がしています。

    『僕らは地球の細胞

    細胞を震わせ、この“ほし“を震わせて、

    初めて、僕らは生まれて来た意味を知る』

  • Hitotsu

    結婚して20年が経った。20年と言う数字だけ聞けば、それなりに重みのある期間で、しみじみ振り返るものなのかなと思ったが、まだ僕らは旅の途中と言う感覚が強く、来た道を振り返るのは時期尚早な気がする。

    しかしながら、こうやって同じ方向を目指して今も一緒に歩むことができるこの状況を、ささやかに乾杯するのも良いねと言う話になり、一軒のレストランを予約した。

    こう言った時のインスピレーションは奥さんのが長けているので任せたところ、戸塚駅の近くにあるHitotsuと言うセンスの良さそうなお店を見つけてくれた。

    雨の降る土曜日の夕方。JRと地下鉄の乗り換えの拠点で、人通りも多い戸塚の駅前、静けさとは無縁そうな通りを少し行ったところにあるマンションの一階にそのお店はあった。

    扉を潜ると、打ちっぱなしのコンクリートの壁を暖かみのある照明が照らし、ミニマムに整えられたインテリア、穏やか音色のBGMが調和していて、外の喧騒とは別世界の空間が僕らを迎えてくれた。

    東京を離れた地方で、類い稀ないセンスを発揮し、自分の才能や世界観と向き合う若きオーナーシェフと出会うことがあるが、このお店にもそんなオーラが漂っていて、何だか知らない街へと旅に来た非日常感すら覚えた。

    乾杯を皮切りに出されるコース。ありきたりの言葉で恐縮だけれど、本当にどれも素晴らしかった。オーナーシェフの奥様が野菜料理の研究家だそうで、野菜を中心とした料理は繊細だが、生命力に満ちていて、身体に英気を与えてくれる。

    聞いたところ、1〜2ヶ月に一度、季節の移ろいに合わせてコースのテーマや食材、メニューを見直すそうだが、一品一品には作品の如くそれぞれタイトルが付けられていて、そこに秘められたコンセプトが料理の隠し味にもなっていそうだ。

    特にコースの2番目に出される野菜のパフェは絶品だった。デザートでなく料理として提供される逸品。今回は玉ねぎのパフェだったが、色とりどりのカット野菜がアクセントにもなり、飽きがこないし、斬新で、一口ごとに何度も目を見開いた。

    更にはメインで出てくるお肉。野菜中心のメニューの中で最後に登場するお肉の存在は際立っていて、命の重み、日頃忘れかけている食への感謝の念を思い起こさせ、僕らはいつも以上にしっかりと最後までその有り難みを味わった。

    もう一つ、このお店はスタッフの方々も最高だった。事前に予約確認の電話を頂いていたが、その折に何気なく話した結婚記念の会話を、サプライズの品に変えて準備して下さっていた。そんな優しさや心遣いに満ちた接客も、この日過ごした時間に花を添えてくれた。

    食べて愉しみ、感じつつ、そして大切なパートナーとこの瞬間を噛み締めながら過ごせたこと。20周年の記念にはこの上ないチョイスであり、いつか振り返ったとき、忘れられない一コマになると感じた。

    そして、一度しか来ない20年目の節目にチョイスするのは、店名のとおり、ここ「Hitotsu」だけだったのかなと思った。

  • 誰かの優しさ

    今日は早く帰宅しなくてはならなかった。速やかにパソコンの電源を落とし、余計な仕事で捕まらないよう、いそいそと会社を後にする。いつも時間管理がギリギリな僕が、珍しく余裕を持って地下鉄に乗り込み、いいリズムで乗り換えながら東京駅に辿り着く。

    平日の夕方、家路を急ぐ通勤客や日本の各地に向かう観光客の人波を縫うように東海道線のホームに向かう途中、電光掲示板に映る列車遅延の表示が、せっかくのテンポに水を差した。

    どうやら事故の影響で電車が止まっているらしい。しかもまだ電車が止まったばかりのタイミングで、家のある湘南方面に向かう他のJRの路線も全て運転を見合わせていて、当面はこの混沌が続きそうだった。

    JR線と至近で並走する京急線などの私鉄は相当な混雑が予想されることから、少し遠回りにはなるが、僕は地下鉄で中目黒に向かい、東横線で横浜まで向かう。

    東京駅からからの地下鉄の車内はさほどの混雑もなく、狙い通りと思ったのも束の間、東横線に乗り換える中目黒駅のホームは多くの人で溢れていて、満杯でやって来る電車を何本かやり過ごさなくていけない状況だった。

    数本待った後にやってきた各駅停車は比較的空いており、車内中程まで進み、幸いにも体勢を保てるだけのスペースを確保することが出来た。吊り革にしがみつく僕の隣にはフランス人と思しき小柄な初老の女性が立っていたが、他の乗客同様に何処となく怪訝そうな表情で、少しばかり苛立っている様にも見えた。

    疲れや不機嫌さが入り混じる車内、ゆっくりと走り出す車体。こんな状況でも平常心を保てれば、悟りを開けるかも知れない。そんな事を考えている間に電車は次の駅で停車し、思ったより多くの人達が降りていった。そして目の前の席が空き腰掛けようとした矢先、先程のフランス人らしきマダムと目が合ってしまった。

    こんな環境での席の確保はまさに千載一遇のチャンスだったが、座わりたいという気持ちを押しのけるように、なぜか譲るべきという気持ちが僕の中にやってきて、気がつくと笑顔でそのマダムに席を譲っていた。彼女は意外と言う表情を示しつつ、軽く頭を下げ、やや遠慮がちに席に座った。

    それから各駅に電車は止まり、人は降りるものの、なかなか席は空かず、暫し僕は吊り革と一体化して電車に揺られる。それでも中目黒と横浜のちょうど中間位までやって来て、このまま直立不動で横浜まで行く覚悟をしたタイミングでやっと席が空き、先程のマダムの隣に腰を降ろした。

    訪れた平安を味わいながら、僕はイヤホンをして気になっていた動画を見つつ、暫し自分の世界に浸る。電車は急ぐことなく、厳かな儀式の様に一駅一駅、律儀に丁寧に横浜を目指し、気がつけば一つ前の反町の駅までやって来た。すっかり忘れていたが、JR線はどんな状況だろうか?

    車内では間も無く横浜駅に到着するアナウンスが流れ、電車はホームに滑り込み、ブレーキと共に減速してゆく。そして帰宅に向けた次なる道のりに向け、立ち上がろうした僕の手を、ふと誰かが引き留めた。

    びっくりして眼を向けると、先程のマダムが唐突だけれど丁寧に、しかも日本語で御礼を伝えてきた。

    「アリガトウ、ゴザイマシタ」

    御礼、日本語、それだけで少し意表をつかれたが、更には「ワタシはトナリエキです」と言う、返しの難しい二言目に、僕は笑顔で手を振ってその場を去る事しか出来なかった。

    何だか心がざわついていた。そんな言葉を掛けてくれたことが嬉しかっただけに、「お気をつけて」位の気の利いたことが言えればよかった。自分のリアクションの薄っぺらさを痛感し、妄想の中で、何度も彼女に「お気をつけて」の言葉を投げ掛けた。

    思い返せば、僕が吊り革を掴んで瞑想ならぬ迷走の思索をしていた時も、更には席に座り自分の世界に浸り込んでいた間も、彼女は席を譲って貰った感謝をどう伝えようかとずっと考えていたのだろうか…

    横浜駅では、直ぐにJR線が運転を再開し、結局は思った程のロスもなく家路に着くことが出来た。あの横浜駅の車内での思いがけない会話から何だか流れが変わったと感じた。

    彼女が用意してくれていたかも知れない、その優しさ。見知らぬ誰かの想いは、その後も暫し消えることなく、僕の中を巡り続けていた。

  • センチュリーのタクシー

    仕事で愛媛県の松山市に行った。松山には過去数回訪れたことがあったが、これまでは全て空路で、今回初めて電車を使い陸伝いでこの街に入った。

    かつての城下町だった街は、その中心が城跡を取り囲む様に広がり、汽車の駅はそこから離れた場所に後から作られたケースが多い。松山もそんな街の1つで、駅から繁華街まではそれなりの距離がある。

    1月の真冬の空の下、3日分の荷物を詰め込んだスーツケースを引きずり、僕はタクシー乗り場に向かって歩く。夕暮れの松山。優しいオレンジに染まりゆく街が、少しばかり寒さを和らげてくれている。

    タクシー乗り場で客待ちをする車列に沿って歩きながら、僕はこれから自分が乗ろうとする最前に陣取るタクシーに少し違和感を感じていた。そこにはタクシーの車種としてはなかなか見ることのない高級車「センチュリー」が待ち構えていた。

    センチュリーと言えば政治家やちょっと怖そうな方々が使う、いわゆる黒塗りと言われる車。トヨタ自動車が販売する中でもおそらく最上級車種で、自家用車で使われることはほぼ無く、それなりの威圧感はタクシーとしてもそぐわない印象もある。

    しかもE.YAZAWAのステッカーが、その車種の威厳に更に凄みを加えていて、気楽には乗れなそうだなと少し緊張しつつ窓をノックする。

    こちらに気づいた運転手さんが急いで降りてきた。美味しいコーヒーを出してくれる喫茶店のマスターの様な、身なりの綺麗な紳士的で丁寧な言葉遣いの運転手さんが、スーツケースをトランクに素早く運んでくれた。

    良い人でよかった。走り出した車内、運転手さんの人柄に安心し、タクシーとしては勿論、人生で初めてセンチュリーに乗ったと、僕から話を切り出した。

    60代中盤くらいの運転手さんは、「おそらく四国ではこの1台、全国でも聞いたことがないですね」と嬉しそうに、そして少し誇らしげハンドルを握り、ご自身の話をしてくださった。

    若い時は働き詰めで、色々我慢することも多かったが、子育ても終わった頃から、自分らしく、そして好きなものに囲まれて毎日を過ごしたいという想いが強くなり、兼ねてから乗ってみたかったセンチュリーを相棒に、10年程前からこのスタイルで仕事をされているそうだ。

    相棒のセンチュリーは20数年前の古い型式だそうで、内装は現代の様な電子・AI的な設えは皆無で、木目調のパーツが静かに佇み、その1つ1つに愛情が込められ、しっかり手入れされているのが分かる。

    今日は気を遣ってかけなかったものの、1人でタクシーを流している時は、永ちゃんの音楽を心のガソリンに、楽しくお仕事をされているそうだ。

    思わず、以前に何の仕事をされていたか、ずっとタクシーの運転手さんをされているのか、聞いてみたいとも思ったが、今ここにある運転手さんの存在感が際立っていて、深掘りするのも野暮だと感じ、良き塩梅に身を任せた。

    アクセルを踏む度に、静かにうねりを上げるエンジン。吸い付く様にブレることなく安定して走る車体。丁寧に言葉を紡いでくれる運転手さん。駅から目的地までの10分余りの時間。誰にも教えたくない非日常な秘密のアジトを見つけた気分だった。

    降車時、荷物を下ろしてくれた運転手さんに御礼を伝え、走り去るタクシーを見送った。その姿に、乗る前にあった違和感は感じず、またこの街に来た時には、あのセンチュリーのタクシーに出会いたいなと思った。そして一期一会、人生の良い先輩にお会い出来たと感じた。

  • 小さな神様の話

    昨年12月のある朝、僕は羽田から大阪伊丹行きの飛行機の中にいた。ちょうど全乗客が搭乗し、CAの皆さんが細やかに気を配りつつ離陸に向け準備がなされていた。

    一連の作業が滞りなく完了し、機体が駐機場から静かに動き出した頃、機内の静けさをつんざく様な大きな声が響いた。声の主は僕の数席前の3〜4歳位の小さな女の子だったが、両脇でなだめるご両親の声に耳を傾ける様子もなく、「シートベルトをしたくない」と発していた。

    最初は周りの乗客もよくある機内の光景くらいで流しつつ、CAの方々も小慣れた雰囲気でやり過ごそうとしていたが、女の子の声は少しずつ大きくなるエンジン音をも凌駕するくらいの存在感になって行った。

    「シートベルトをしたくない」「絶対に嫌だ」「締めるのが痛い」

    聞こえてくるご両親とCAさんの話によると飛行機に乗るのが今回初めての様で、その不安が癇癪に火を点けてしまったのかと思ったが、どうやら彼女はシートベルトそのものが嫌とのこと。

    離陸に向け滑走路を進む機体。空に飛び立つまでのタイムリミットが迫る中、全力で自分の感情をぶつける女の子と、プロとしての威信にかけ何とかシートベルトをさせようとするCAの激しいやり取りが暫し続いた。

    だが、百戦錬磨の笑顔は全く効き目を持たず、目線を落としての丁寧な会話も無駄でしかなく、本来は1種類しか貰えないプレゼントを全種類あげるという奥の手すら、「私に全部くれるなら他の誰かにあげるべき」という意外な程に真っ当な返答の前になすすべもなく。

    腰を浮かせて、この戦況を見守る他の乗客達も、この至極真っ当な女の子の返しにはぐうの音も出ず、文句すら漏れてこず、もはやこの機内においては彼女が離陸できるか否かの命運を握る絶対的な存在となった。

    いよいよ機内は大慌てでCAが立ち替わり入れ替わり、数人がかりでシートベルトをさせようと説得するも、この小さな神様が納得する答えを見つけられず時間だけが過ぎていく。機長からはアナウンスで諸事情により離陸が出来ないという説明までされ、女の子のご両親も気まずく憔悴されていた。

    僕も昔はこんな無双な状況で癇癪を起こして、よく親や周囲の大人を困らせていたなと、泣き叫ぶ女の子と自分を重ね合わせ、心の中であの時は申し訳なかったと数十年前のことを思い出したりもした。乗り合わせた多くの人が同じ気持ちだったのか、自己主張の強そうな大阪行きの乗客からは不思議と不満の言葉は発せられなかった。

    そんな中、幕切れは意外にもあっけなくやってきた。あと数分で離陸中止となる直前、騒ぎ疲れた女の子の間隙を突いて、ベテランCAにより手早くシートベルトが締められ、ご両親にしっかり手を握られ、小さな神様と僕らは無事に空に飛び立った。

    雲の上、機内は静寂だった。あれだけの難事の後だけに、エンジンの音すらもはや無音に感じた。着陸のタイミングでまた一悶着あるかとも思ったが、仕事をやり切った神様はお疲れの様で、着陸の衝撃も気づかないくらいにスヤスヤと眠っていた。

    駐機場に到着し、みんな何事もなかった様に降りて行った。それがご両親への配慮だと感じたのだろうか。そんな中で1人の男性が女の子のお父さんに話かけていた。

    「プレゼントを私でなくて誰かにあげるべき」

    幼い女の子が我が儘で騒いでいるならばこんな事を言えるはずがなく、娘さんは素晴らしい感性があって将来楽しみという様なことを伝えていた。ご両親も飛行機に乗ることがトラウマにならず、救われたと思った。女の子だけじゃなく、ここにも小さな神様がいた。

    泣けてくる話だなと思った。そして、とても清々しかった。誰の心の中にも、小さな神様は宿っているなとしみじみと感じてしまった。