
今日は早く帰宅しなくてはならなかった。速やかにパソコンの電源を落とし、余計な仕事で捕まらないよう、いそいそと会社を後にする。いつも時間管理がギリギリな僕が、珍しく余裕を持って地下鉄に乗り込み、いいリズムで乗り換えながら東京駅に辿り着く。
平日の夕方、家路を急ぐ通勤客や日本の各地に向かう観光客の人波を縫うように東海道線のホームに向かう途中、電光掲示板に映る列車遅延の表示が、せっかくのテンポに水を差した。
どうやら事故の影響で電車が止まっているらしい。しかもまだ電車が止まったばかりのタイミングで、家のある湘南方面に向かう他のJRの路線も全て運転を見合わせていて、当面はこの混沌が続きそうだった。
JR線と至近で並走する京急線などの私鉄は相当な混雑が予想されることから、少し遠回りにはなるが、僕は地下鉄で中目黒に向かい、東横線で横浜まで向かう。
東京駅からからの地下鉄の車内はさほどの混雑もなく、狙い通りと思ったのも束の間、東横線に乗り換える中目黒駅のホームは多くの人で溢れていて、満杯でやって来る電車を何本かやり過ごさなくていけない状況だった。
数本待った後にやってきた各駅停車は比較的空いており、車内中程まで進み、幸いにも体勢を保てるだけのスペースを確保することが出来た。吊り革にしがみつく僕の隣にはフランス人と思しき小柄な初老の女性が立っていたが、他の乗客同様に何処となく怪訝そうな表情で、少しばかり苛立っている様にも見えた。
疲れや不機嫌さが入り混じる車内、ゆっくりと走り出す車体。こんな状況でも平常心を保てれば、悟りを開けるかも知れない。そんな事を考えている間に電車は次の駅で停車し、思ったより多くの人達が降りていった。そして目の前の席が空き腰掛けようとした矢先、先程のフランス人らしきマダムと目が合ってしまった。
こんな環境での席の確保はまさに千載一遇のチャンスだったが、座わりたいという気持ちを押しのけるように、なぜか譲るべきという気持ちが僕の中にやってきて、気がつくと笑顔でそのマダムに席を譲っていた。彼女は意外と言う表情を示しつつ、軽く頭を下げ、やや遠慮がちに席に座った。
それから各駅に電車は止まり、人は降りるものの、なかなか席は空かず、暫し僕は吊り革と一体化して電車に揺られる。それでも中目黒と横浜のちょうど中間位までやって来て、このまま直立不動で横浜まで行く覚悟をしたタイミングでやっと席が空き、先程のマダムの隣に腰を降ろした。
訪れた平安を味わいながら、僕はイヤホンをして気になっていた動画を見つつ、暫し自分の世界に浸る。電車は急ぐことなく、厳かな儀式の様に一駅一駅、律儀に丁寧に横浜を目指し、気がつけば一つ前の反町の駅までやって来た。すっかり忘れていたが、JR線はどんな状況だろうか?
車内では間も無く横浜駅に到着するアナウンスが流れ、電車はホームに滑り込み、ブレーキと共に減速してゆく。そして帰宅に向けた次なる道のりに向け、立ち上がろうした僕の手を、ふと誰かが引き留めた。
びっくりして眼を向けると、先程のマダムが唐突だけれど丁寧に、しかも日本語で御礼を伝えてきた。
「アリガトウ、ゴザイマシタ」
御礼、日本語、それだけで少し意表をつかれたが、更には「ワタシはトナリエキです」と言う、返しの難しい二言目に、僕は笑顔で手を振ってその場を去る事しか出来なかった。
何だか心がざわついていた。そんな言葉を掛けてくれたことが嬉しかっただけに、「お気をつけて」位の気の利いたことが言えればよかった。自分のリアクションの薄っぺらさを痛感し、妄想の中で、何度も彼女に「お気をつけて」の言葉を投げ掛けた。
思い返せば、僕が吊り革を掴んで瞑想ならぬ迷走の思索をしていた時も、更には席に座り自分の世界に浸り込んでいた間も、彼女は席を譲って貰った感謝をどう伝えようかとずっと考えていたのだろうか…
横浜駅では、直ぐにJR線が運転を再開し、結局は思った程のロスもなく家路に着くことが出来た。あの横浜駅の車内での思いがけない会話から何だか流れが変わったと感じた。
彼女が用意してくれていたかも知れない、その優しさ。見知らぬ誰かの想いは、その後も暫し消えることなく、僕の中を巡り続けていた。
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